解決力から発見力への転換点

Inspiration Meta-thinking

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こんにちは、SHIN(シン)です。

バイオ系が専門で、博士号を持っています。現在、在米5年目で研究職です。
このサイトでは科学と技術に関する情報をみなさんと共有することで、世の中に流布する大量の情報に対して自分で判断し行動できるようになるキッカケになれば、と思っています。一言で表せば、情報リテラシーを向上させよう、ということです。
前回からの続きです。今後は問題解決力から問題発見力へと求められる能力が移りゆくであろう、ということを中心に述べます。長くなってしまったので、発見力の育て方は次回に譲ります。

 

問題発見力の源泉は違和感への気づき

先に答えを書いておきます。問題発見力を生み出す原動力は日々の何気ない行動や観察における気づきです。特に、ほんのちょっとした違和感に対して敏感になればその力は如何なく発揮されます。以下では、発見力と解決力に関しての説明をし、違和感に対する感性の磨き方について述べます。これからは差別化を図る意味でも問題解決力を伸ばすより、問題発見力を伸ばしたり、活かす方が次の時代を生き残る確率が高まると思います。

これまでは解決力、これからは発見力

これまではひとえに解決力の高さが求められてきました。その時点における最適解を出せる人、とも言えます。とことん効率の高さを追求していた状態です。この追求を続けた結果、既存の技術を用いる限りもうこれ以上効率を上げられないところまで一通り辿り着いたと考えて良いと思います。つまり、正解を見つける仕事、最適解を出す仕事の全体的な数が少なくなっているということです。ある意味で当然の結果ですが、皆がよってたかって最適解を見つける競争をやった結果今の便利な世の中になったわけなので、良いことなのです。実際、以前に問題とされていた部分が大幅に縮小されました。便利すぎて困る、というのもよく聞かれる声です。細かいことを除けば、問題がないことが問題、とすら言えるかもしれません。しかし、問題がなくなったことで、今の若者はこれまで仕事とされていた職業に就くことが難しくなりました。若者にやる気がないとか、そういう精神論では当然なくて、構造的な問題なわけです。以前問題であったことが解決されたこと自体は歓迎すべきことですが、このままだと若者世代は多くが食いっぱぐれてしまいます。それを避ける為に解決力一辺倒を避けましょう、というのが今回の提案です。解決力が要らない、という意味ではないので誤解されませんように。

発電を例にとってみると

例えば、電気で言えば発電所における現在の発電効率はおよそ40%程で、もうこれ以上あげることは難しいところまで技術水準が来ています。もし最先端の技術が導入されて数%〜10%の向上が見込めたとしても(実際、コンバインドサイクル発電というので実現可能)、それは一部の発電所でのみ導入されることであり、一気に普及するわけではありません。よって、全体として数%の向上が達成されるまでにはある程度の時間差が生じます。全世界での達成と考えるとかなりの時間がかかると言って良いでしょう。ウィキペディアの記事を参考にすると、現在の効率はおおよそ40%、調整後だと33%と書かれてあります。21世紀においても、発電効率のこれ以上の向上を見込むのはかなり難しいところまで来たといえるのです。他の方法で更に上を目指すことは可能です。これを別の形で乗り越えようとする代表がITによる技術です。今まで人間の勘に頼っていた部分を機械に置き換えてよりエラーを減らすことで効率を上げることを目的にしています。基本的には最大効率が既に決まっているので、どちらかというと送電などの途中の過程を工夫したり、時間帯ごとの発電量調節したりすることでそのままだと起きうる損失を減らすことに重点が置かれています。ITソリューション、と銘打ったものの多くはコンピュータを用いて人に頼らない仕組みを築き、ヒューマンエラーを減らすことです。機械化やIT化することで効率化が図れる部分は今後も置き換えが進むと考えて良いでしょう。この意味で一般的なIT化についてはこれまでの最適化に関する問題解決の延長線上にある事項なので、早晩解決され尽くしてしまう可能性があります。

学校は解決力型の人材養成所だった

歴史を振り返れば、産業革命以降解決力が社会における生活の質を急速に上げ続けてきました。インフラと呼ばれる構造物や仕組みはどんどんと近代化されていき、人々はその便利さを享受してきました。その解決力を養う場こそが学校でした。これまでの学校教育は解決力を高めることを目的にし、実際そういう人材を育成、輩出してきました。更には、より解決力の高い人間を選抜する役目も担って来ました。皆さんも潜り抜けてきたであろう受験はその最たるものの一つです。実際、解決力の高い組織が結果を残すし、そういう企業が利益を上げてきました。基幹産業と呼ばれるものは遍く問題解決力によって人々にその恩恵をもたらしました。電気、ガス、水道や道路、ダム等の公共性の高いものはその代表です。重化学工業や鉄鋼業のようにより高効率で高品質なものを量産する分野であったり、自動車産業や半導体産業の様により微細で正確な工程が要求されるような分野でも、その問題解決力の高さが求められる仕事そのものでした。トヨタの生産方式における合言葉「カイゼン」も解決力への飽くなき探究精神を一言で表している、と言えそうです。

既存企業の業績が上がらないのは解決力を発揮する場所が失われたから

これまで日本が世界と互角かそれ以上に渡り合えたのは、ヒト・モノ・カネのほぼ全ての資源を解決力を上げることへ選択と集中を行った結果とさえ言えるかもしれません。従来より解決力の高い人材が重宝され、実際そういう人を多く生み出し且つその人達が結果を残してきました。しかし、近年そういう解決力の高さに企業の業績が比例しなくなってきました。IT業界でも何でも「ソリューション(解決)」という言葉を看板に掲げている会社をよく見かけますが、まさしく解決力がその会社の売りであることを端的に示しており、各業界においての効率化しますよ、最適解を提供しますよ、と言っています。それぞれが最適解を求め続ければ、自然とその売り上げがあがって、皆が一様に幸せになる、かと言えば必ずしもそうはなっていないのは現実に目を向ければすぐに分かることです。既にかなりの程度で各分野とも効率化、最適化が図られており、更に効率を上げるように仕向けてもその効果が現れにくい状態にあると考えて間違いないでしょう。現在でも新素材や新手法は次々と開発されているので、今後もそのような新しいものを用いてその都度最適解を生み出し続ける仕事はあるにせよ、絶対数としては減り続けるだろうと思われます。解決力は相対的にその価値を失う、とも捉えられます。現在既にその兆候は現れており、解決力の価値は下がっています。大企業がこれまでと同じ様な業績を出せなくなり、窮地に陥っている例を目にすることも少なくありません。これは、企業に勤める社員の能力が低いことを示しているわけではなく、解決力という力を発揮する場所を失ったから、とみる方が自然な気がします。或いは、戦うべき場所が既に移ったのにもかかわらず、これまでと同じ手法で戦ったいるようなものです。しかも今後これが反転する兆しは私の見る限りはなさそうなのです。一通り解決力が必要とされる領域が満たされた現代では今後別の能力が必要とされることになるでしょう。それが、問題の発見力です。問題が解決したんだから発見も何もないだろうという意見も当然あるとは思いますが、そういう意味でないことは追々説明していきます。

以上を簡単にまとめておくと、これまでは既に存在する命題に対してその時点で得られる最適解を示す、解決力の高さが仕事の成否に大きく左右しました。今後は解決力の発揮というその限られたパイを争うよりは、別の方向に目を向ける方が賢い生き方ができるだろう、というわけです。世の中のIT化が進んで一巡した後の世界においてそれでも残る部分がまだまだ人間の活躍する領域ということになります。そして、その大きなものの一つが発見力を活かした仕事です。

 

これから求められるのは問題発見力

発見に至る過程は幾通りもある

前置きが随分と長くなってしまいました。それというのも、問題に対する解決力と発見力の違い、差を明確にしておきたかったからです。クドいですが再び強調しておくと、発見力は枠組み作り、解決力はその中身で発揮されるべき能力、ということです。問題発見力については、戦略、目標までの距離感、ゴールの設定の仕方、見通しの立て方、という別の表現でも同じ意味をしている、と述べました。何故同じ意味を表すのに、こんなにも色々な言い方をするのか疑問に思われることでしょう。しかし、これはその能力が単一のものを指していないから、と考えれば良いのです。問題を発見するという概念は一つでも、そのやり方は幾通りもある、と言い換えられます。人が何か着想を得る時には、これまでの自分の経験を基に何かしらの連想をすることが多いと思います。例えば、絵の好きな人は好きな絵画作品や画家の用いた手法をもとにして新しいデザインや技術を産み出すということがあるでしょう。また、音楽の好きな人なら、耳から入ってくる情報を基にして何か新しい着想を得ることがあるかもしれません。その他、料理が好きであれば新しいメニューを考え出すようにして、仕事上の新しい案件を生み出すかもしれません。これと同じで、問題を発見する能力というのは個人が持つ背景や好み等に大きく左右されることになり、定式化が非常に難しいことにもつながります。定式化できないわけですから、それを評価、測定することもまた同時に難しいことにもなります。これは前回にも述べた通りです。

専門家はちょっと横に置いておいて

今後発見力が大いに必要とされると仮定すると、どうにかして問題を発見する頻度を高めなければなりません。様々な角度から検討する必要が生じるでしょう。そうであれば、問題を発見する構成員はその分野における専門性を必ずしも必要とはしない可能性が高いです。視野が狭まるので専門家ばかり集めるのもよくありません。なまじ専門的な知識を有していると、その分野の慣習から来る固定化したモノの見方が邪魔をして肝心の問題発見に至らない可能性があります。「専門家」とはその分野の現段階での最適解を提供できる人物、という意味合いが多分にあり、これだとモノの見方が固定してしまいそもそも欲しかった視点、切り口が得られないことになるのです。専門バカという言葉の悪い意味は、その分野の枠組みに縛られて良い発想ができないことに由来すると考えられるわけです。専門家が不要というのではなく、問題発見の段階では敢えて専門性に縛られにくい環境を整えた方が良い、ということです。従って、多少の基礎があれば(或いは全く無くても)後は何も知らないという人を一定数(過半数以上)混ぜ、且つその意見を専門家と同程度尊重する、という場づくりが求められます。理念とか共通認識とか言った考え方をその仲間で共有しつつも、それぞれがバラバラで活躍させる必要が出てきます。或いは、一つの案件、プロジェクトに対して一人で受け持たせる、という場合も多くなってくるかもしれません。問題自体を発見する必要があるわけなので、皆で知恵を絞り合えば妙案が出る、とは限らない事象が増えてくる可能性が高いのです。この「妙案」も結局は最適解の言い換えに過ぎないのですから。「発想は素人で、仕事はプロで」という言葉をどこかで読んだ覚えがあるのですが、これも考え方を固定化させてはいけないことを如実に表しているのだと思います。

定式化できないからこそのアイデア出し

これまでに良いアイデアを出す為の方法論が様々に提案されているのも、結局は定式化できない対象を扱っているからに他ならないことを示しているわけです。実際、「アイデア、方法」と検索をかけただけでもの凄い数がヒットします。ブレインストーミング(ブレスト)、ゼロベース思考、マインドマップ、デザイン思考、などなど、もう聞き飽きたよというものも含めてありとあらゆる関連用語、定型句が山盛り現れます。勿論、そう言った方法を基にした幾つかの成功例を目にすることはあっても、いざ自分に置き換えた時に結果に結び付いたという例を殆ど知りません。この読者にしても、本を読んだり、セミナーを受けたりして実践してみても、多くは何も生まなかったのではないでしょうか。或いは、あなたが仕事を任せる側や管理職だとして、何かを発注した時に期待通り(?)の斬新な発想が返って来ることなどは皆無でしょう。世にはイノベーションという言葉が氾濫していますが、そんなにいつもいつも革新的なものが生まれているなら、既にドラえもんくらいは現れていて良さそうなものですが、全くその気配はありません。正確な数字は分かりませんが、二十世紀に比べて実は大発明や大発見は為されていないか、或いはその数は減っているのではないでしょうか。これからも大発明や大発見をするためにも、その土台を整え直す段階に直面している転換点にいると考えることもできるでしょう。

 

また随分と長くなってしまったので、今回はこのあたりで。次回はいよいよ発見力の育て方に焦点を当てます。既に、ちょっとした気づきが答えだ、と冒頭に書いたのですが、今回は他の説明に多くを割いたので、次回にこれを詳しく述べます。

この記事をお読みいただきありがとうございました。

 

 

今回の参考記事

アリの思考 vs.キリギリスの思考

問題解決型と問題発見型の違いをアリとキリギリスに例えて解説

・すべての教育は「洗脳」である

学校が解決型の養成所であったことを鮮やかに説明している

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